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新春特別企画2009 vol.1

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恒例の「新春特別企画」。昨年に引き続き、2009年に記念の年を迎える9人の作曲家を、3回にわたって未公開音源(一部を除く)とともにご紹介します。
今年の9人の中には、偶然ですが互いにつながりのある作曲家が集まっています。今日ご紹介する3人の共通キーワードは「イギリス」です。
※このページに掲載されている音源は公開終了となりました。ご了承下さい。

ヘンリー・パーセル Henry Purcell (1659-1695)…生誕350年
イギリス・バロックを代表する作曲家。チャペル・ロイヤルの聖歌隊員を父にロンドンに生まれる。 幼時に父を亡くし、やはり聖歌隊員だった伯父の養育のもと、チャペル・ロイヤルの少年聖歌隊に所属。9歳にして作曲を始めたと伝えられている。 変声に伴い聖歌隊を退いた後はウェストミンスター寺院ならびにチャペル・ロイヤルのオルガニストを務め、多数のアンセム(英国国教会の賛美歌)を作曲。 またオペラや劇音楽、器楽曲、室内楽曲にも才能を発揮し、イギリス音楽の伝統にフランス風の様式感・イタリア風の旋律性を採り入れた独自の作風を確立するも、 創作の最盛期に36歳の若さで急死。代表作にオペラ「ディドとエネアス」、「アブデラザール」をはじめとする多数の劇音楽など。
イギリスは中世以来多くの有能な作曲家を生み、大陸とは一味違った独自の音楽的土壌を育てていました。 タリス、バード、ギボンズ、ダウランドなど、ルネサンス時代のイギリス音楽はさながら百花繚乱の様相です。 パーセルもそうした伝統の中から登場しましたが、この天才の夭逝の後、イギリス出身の作曲家の系譜はぷっつりと途絶えてしまいます。 バロックが終焉を迎え、古典派、更にロマン派へと音楽が移りゆく中、イギリスは大陸から偉大な音楽家を招聘するだけの「音楽の消費地」になってしまったのです。 イギリスはエルガーが登場するまでの約200年間、自国出身の大作曲家を待ち続けなければなりませんでした。 パーセルは以後のイギリスの作曲家たちにとっての伝説的存在となり、ブリテンは代表作「青少年のための管弦楽入門」の変奏主題にパーセルの「アブデラザール」のテーマを用いています。
ちなみにパーセルの生年には諸説あり、1658年ともいわれています。
play パーセル:組曲 第7番 ニ短調 Z.668〜アルマンド (4:03) 詳細情報
ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル Georg Friedrich Händel (1685-1759)…没後250年
J.S.バッハと並んで後期バロックを代表する作曲家。ドイツ中部のハレに生まれ、生地の大学で法律を学ぶが、父親の反対を押し切って音楽の道を選ぶ。 教会オルガニストを経て、1703年からハンブルク・オペラの団員を務める。1706年から10年までイタリアに渡り、スカルラッティ、コレルリらと交流、イタリア・オペラの様式を習得。 1710年にハノーファーの宮廷楽長に任命されるが、ロンドンでオペラ「リナルド」がヒットし、職を辞して1712年にイギリスに渡る。 ロンドンではオペラ作曲家として大成功を収め、1724年「ジョージ・フレデリック・ハンデル」としてイギリスに帰化。 1740年頃オペラ興行から退いた後はオラトリオに創作の重心を移し、晩年に視力を失うまでの間に多くの英語オラトリオやアンセムを残した。 親しみやすい旋律、重厚な和声、劇的な構成感は広く人々に愛され、「音楽の父」J.S.バッハに倣って「音楽の母」とも呼ばれる。 代表作にオペラ「ジュリアス・シーザー」「セルセ」、オラトリオ「メサイア」、管弦楽曲「水上の音楽」「王宮の花火の音楽」、その他多くの合奏協奏曲、独奏協奏曲、 室内楽曲、鍵盤楽曲など。
同い年でありながら一度も顔を合わせることのなかったバロック後期の2大巨匠、バッハとヘンデル。 バッハが生涯ドイツ中部に留まったのに対して、ヘンデルは若いうちからヨーロッパ中を飛び回った「国際派」でした。 外国人でありながらパーセル亡き後のイギリス音楽界を席巻したことは言うまでもありません。 ヘンデルは肖像で見るとおりの巨体の持ち主で、凄まじい大食漢だったと伝えられています。 レストランに1人で入って、2人前のフルコースを注文。「もう1人分は誰が食べるのですか?」といぶかるウェイターに、「どちらも僕が食べるのさ」と答えたといいます。 おおらかで楽天的な性格はその音楽からも伝わってきますが、そんな生活を続けていたある日、心臓発作で倒れてしまいます。 幸いにも一命を取り留めた後は摂生に努めたため、結果的にバッハよりも9年長生きしました。 ちなみにバッハとヘンデルは晩年同じ白内障に罹り、同じ医師が手術をしてどちらも失敗し亡くなった、と伝えられています。
play ヘンデル:ヴァイオリン・ソナタ イ長調 作品1-3 HWV.361〜第1楽章(ヴァイオリン:佐藤俊介) (2:38) 詳細情報
フランツ・ヨーゼフ・ハイドン Franz Joseph Haydn (1732-1809)…没後200年
オーストリアの作曲家。ハンガリーとの国境に近い田舎町ローラウに生まれ、6歳で親戚に預けられる。 8歳からウィーンのシュテファン大聖堂の聖歌隊員として働くが、変声期を迎えて解雇され、フリーの音楽家として生計を立てながらほぼ独学で作曲法を習得。 1761年ハンガリーの大貴族エステルハーツィ家に雇われ、1766年には楽長に昇格、音楽好きだった当主の期待に応えて同家のあらゆる音楽業務に携わる。 同家に仕えた30年間に評判は上昇し、国外からの委嘱や出版作品も増加。 1790年に解雇されウィーンに移ると、興行師ヨハン・ペーター・ザロモン(1745-1815)の誘いを受けてロンドンへ赴き、 重要な後期の交響曲(いわゆる「ザロモン・セット」)を初演、大成功を収める。 同地で聴いたヘンデルのオラトリオに触発され、帰国後に古典派オラトリオの2大傑作「天地創造」「四季」を創作。 膨大な交響曲と弦楽四重奏曲によってウィーン古典派の器楽様式を完成させた業績から「交響曲の父」「弦楽四重奏曲の父」、またその穏和な性格から「パパ・ハイドン」とも呼ばれる。 代表作に「驚愕」「軍隊」「時計」などの後期交響曲、「ひばり」「皇帝」などの弦楽四重奏曲、オラトリオ、独奏協奏曲、鍵盤楽曲など。 現在のオーストリア国歌はハイドンの作品である。
有名な割に何となく「地味」な印象のハイドン。天才モーツァルト出現のお膳立て、ぐらいの位置づけに甘んじているような気もしますが、 しばしば見落とされるのはハイドンがモーツァルトよりも実に18年も長生きをしたという事実です。 ハイドンの亡くなった1809年といえば、ベートーヴェンは既に「運命」「田園」の両交響曲を完成し、中期の作曲活動の全盛期。 その後のベートーヴェンがよりロマンティックな方向へ作風を転換させていくことを考えれば、 ハイドンの確立したウィーン古典派の様式は、その死をもって終焉を迎えた、ということもできるでしょう。ハイドンはいわば古典派を体現する人物なのです。 ハイドンの最後のクラヴィーア・ソナタは、両端楽章は変ホ長調ですが、中間楽章がなんと半音上のホ長調で書かれています。 こんな奇抜な調性配列を持った器楽作品は、古典派はおろかロマン派でも前代未聞といえましょう。 ハイドンのこうした「革新性」「実験性」も、見落とされがちな事実です。
play ハイドン:クラヴィーア・ソナタ 第33番 ハ短調 Hob.XVI-20〜第1楽章 (5:12) 詳細情報
続きはまた明日…。
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