新春特別企画2013 Vol.4 イタリアの作曲家たち

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コレッリ
アルカンジェロ・コレッリ (1653-1713)…没後300年
イタリアの作曲家、ヴァイオリニスト。イタリアバロックの室内楽様式、とりわけ合奏協奏曲の完成者として名高い。 前半生については確かなことはわかっていないが、フジニャーノに生まれ、少年期にボローニャでヴァイオリンと作曲を学んだと伝えられる。 17歳の若さでアカデミア・フィラルモニカへの入会が認められ、22歳の頃ローマに移って教会ヴァイオリニスト・指揮者として活動。 退位後ローマで暮らしていた元スウェーデン女王クリスティーナや枢機卿ピエトロ・オットボーニなどの偉大なパトロンに仕え、当代最高の音楽家として厚遇を受けた。 とりわけオットボーニとの関係は深く、枢機卿の死後も宮殿に暮らし、そこで開催される定例演奏会を長年にわたり取り仕切った。晩年には若きヘンデルのオラトリオの初演を担当。 作曲家としては美しい旋律線と几帳面で手堅い書法が特徴で、直接の弟子だったジェミニアーニやロカテッリのみならず、ヴィヴァルディやバッハにも強い影響を与えた。 生前に出版された作品はすべて各12曲からなる曲集としてまとめられており、作品1から4までは「トリオ・ソナタ集」、作品5は「ヴァイオリン・ソナタ集」、 作品6は「合奏協奏曲集」となっている。
我々ピアニストにとってコレッリはあまり接点のない存在で、演奏するとしてもせいぜい「ラ・フォリア」の伴奏ぐらいでしょうか。 「ラ・フォリア」は作品5のヴァイオリン・ソナタ集の最終曲で、オスティナート変奏の名曲ですが、これはスペインの伝統舞曲によるヴァリエーションで、 コレッリのオリジナル曲ではありません。しかしこの主題は後世コレッリの創作と勘違いされるようになり、ラフマニノフはこれに基づいて「コレルリの主題による変奏曲」を作曲しました。 ピアニストにとってはこの「コレルリ変奏曲」の方が、コレッリ関連の作品の中では馴染み深いかもしれません(リストの「スペイン狂詩曲」でも「ラ・フォリア」の主題が用いられています)。 今回は、ライプツィヒ楽派の名教師ライネッケの編曲によるコンチェルト・グロッソの1楽章をお聴きいただきましょう。 強弱やレガートの指定など、ロマン派時代の解釈が面白いですが、やはり同時代の他の編曲と比べるとライネッケの書法は際立って優れています。
play コレッリ/ライネッケ:合奏協奏曲 ニ長調 作品6-4〜アレグロ [1:22] 詳細情報

ヴェルディ
ジュゼッペ・ヴェルディ Giuseppe Verdi (1813-1901)…生誕200年
イタリアのオペラ作曲家。北イタリアの小村に、貧しい小売商兼宿屋の息子として生まれる。少年時代から楽才を見せたが、経済的事情で専門教育を受けることができず、 地元の音楽愛好家の援助を受けミラノへ留学。妻子を病で亡くす不幸の中、1842年に書き上げた「ナブッコ」がスカラ座で大成功を収める。 各地からの依頼に応えて「エルナーニ」「マクベス」「群盗」などを次々に量産。中でも1851年の「リゴレット」、53年の「イル・トロヴァトーレ」「椿姫」で確固たる名声を築いた。 1859年の「仮面舞踏会」はイタリア統一運動の高まりの中で喝采を浴び、ヴェルディは英雄視されるようになる。1871年カイロ歌劇場のこけら落としのために書かれた「アイーダ」で多様なオペラの様式を混合、 シェークスピアの原作に基づく1886年の「オテロ」では演劇との融合に挑戦し、前人未踏の境地に到達。 唯一の喜歌劇「ファルスタッフ」を脱稿し79歳でオペラ創作から引退、一切の栄誉を断って田舎に退いた。ミラノ滞在中に客死、国葬には20万人もの市民が参列した。 歌手の技巧を誇示するだけの様式美的なイタリアオペラをドラマティックなものへ変革し、現在も世界で上演され続ける傑作を多数残した功績により、オペラ史上最も重要な作曲家とみなされている。 後期には「レクイエム」などの宗教曲も手がけた。
オペラの歴史を塗り替えた2人の巨人、ヴェルディとヴァーグナーは同い年。互いに強いライヴァル意識を持っていたようですが、ヴァーグナーが1883年に亡くなるとヴェルディは大いに落胆したと伝えられています。 2人とも正規の音楽教育を受けておらず、独学と実践からオペラの改革を成し遂げました。ヴェルディのイタリア人らしい明るい歌心と、力強く男性的な表現はまさに天賦の才能だったのでしょう。 華々しい成功にもかかわらず、彼は派手な生活に背を向け、田舎の農園で質素に暮らすことを好みました。 本人は生前「ピアノ曲は書いたことがない」と証言したようですが、少なくとも2曲のピアノ曲が知られています。 そのうちの1曲、「ロマンス」をお聴きいただきましょう。素朴な小品ですが、後半でいきなり難易度が上がります。
play ヴェルディ:言葉のないロマンス [1:09] 詳細情報

マスカーニ
ピエトロ・マスカーニ Pietro Mascagni (1863-1945)…生誕150年
イタリアのオペラ作曲家。リヴォルノのパン屋の息子に生まれる。父親の反対を押し切って音楽の道を選び、地元の音楽院を経てミラノ音楽院に留学。 ポンキエッリに師事し、苦学生仲間のプッチーニと共同生活を送るが、すぐに飽きて退学。楽士や指揮者、教師として生計を立て始める。 1889年に書いた1幕もののオペラ「カヴァレリア・ルスティカーナ」が出版社ソンツォーニョの作曲コンクールで優勝、翌年ローマで初演されると驚異的な成功を収め、一躍有名人となる。 その後「友人フリッツ」「イリス」など10曲以上のオペラを創作する傍ら、指揮活動にも精力を注ぎ、南北アメリカにも演奏旅行を行った。 1929年にはファシスト政権から排除されたトスカニーニの後任としてスカラ座の音楽監督に就任、名声を恣にしたが、敗戦後ムッソリーニに協力した罪で財産を没収され、 ローマで孤独な死を迎えた。デビュー作「カヴァレリア・ルスティカーナ」はレオンカヴァッロの「道化師」と並ぶヴェリズモ・オペラの傑作として現在も人気が高いが、 他の作品はその陰に隠れ、ほとんど顧みられていない。
本人は発表するつもりがなかったのに、妻が内緒でコンクールに応募したという出世作「カヴァレリア・ルスティカーナ」。 この成功がきっかけで、イタリアオペラに「ヴェリズモ」(現実の庶民の生活に題材を求め、暴力描写も厭わないセンセーショナルな内容を持つ)の潮流が起こります。 オペラ文化が成熟していたイタリアでは、オペラで成功した作曲家には巨万の富がもたらされました。ヴェルディはそうした世俗的な富に背を向けましたが、 名も無き楽士から出発したマスカーニは人一倍上昇志向が強かったのでしょう、創作活動に専念するよりも出世の道を突き進み、最後には失脚してしまいました。 今回ご紹介する「間奏曲」は、後にオーケストラ用に編曲されて「カヴァレリア・ルスティカーナ」の中で使われ、人々の心をつかみました。 深い祈りと感情の高まりを表現した名曲です。
play マスカーニ:間奏曲 [3:15] 詳細情報
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