曲目解説  Program Notes

ベートーヴェン:「エロイカ」の主題による15の変奏曲とフーガ 変ホ長調 作品35

 ベートーヴェンのピアノのための変奏曲の中でも、最晩年の「ディアベリ変奏曲」と並んでよく知られている「エロイカ変奏曲」は1802年に作曲された。 この作品で変奏の対象となっている主題を、ベートーヴェンは生涯で4つの作品に使用している。 最初は「コントルダンス」というオーケストラのための舞曲、2度目はバレエ音楽「プロメテウスの創造物」の終曲、 3度目がこのピアノのための変奏曲で、最後に転用されたのが交響曲第3番「英雄(エロイカ)」の終楽章である。 英雄交響曲があまりにも有名であるために、以前に作曲されたこの変奏曲も「エロイカ変奏曲」の通称で呼ばれるという逆転現象が起こったのである。
 通常の変奏曲では冒頭に「主題提示」が行われるが、この「エロイカ変奏曲」ではまず最初に「導入部」として、 本来の主題の低音部のみをテーマとした変奏が行われ、劇中劇のような効果を上げている。この低音主題は非常に単純なもので、 これを飾る対旋律が1声部ずつ増えていく形で3つの変奏が行われる。
 その低音主題に乗って現れる本来の主題は、のびやかで屈託のない旋律を持つ。第1変奏では16分音符、 第2変奏では更に細かい3連符の分散和音が鍵盤上を駆けめぐる。ベートーヴェンらしいリズムの遊びが楽しい第3変奏、 左手が主導権を握る第4変奏、簡潔で対位法的な第5変奏を経て、第6変奏では和声だけがハ短調に転調、嵐のような激しい表現が聴かれる。 第7変奏はシンコペーションのユーモラスな2声のカノン。第8変奏では「ワルトシュタイン・ソナタ」のフィナーレに先駆けて長いペダルの使用が指示されている。 第9変奏では左手の1指に変ロ音を保続させながら、両手のリズムを食い違わせていく。 第10変奏ではその保続の変ロ音がさまざまな音域に配置され、後半では半音高い変ハ音がユニゾンで響き渡る。 オペラ・ブッファの一幕を思わせる愉快な第11変奏、両手の分散和音が対話する第12変奏、激しいアクセントと跳躍を繰り広げる第13変奏へと続き、 第14変奏は一転して沈痛な変ホ短調に転調。第15変奏ではテンポが大幅に引き延ばされ、後期のベートーヴェンを予感させる静謐で深淵な世界が広がる。
 ハ短調の移行部を挟んで、冒頭の低音主題に基づく3声のフーガが壮大に展開されていく。 主題の縮小形や反行形を自在に用いながら、属音の保続を経てクライマックスが築かれる。コーダでは主題の再現と更なる変奏が行われ、 長い道のりの終着点を示して、この無類の構築性を備えた傑作は幕を下ろす。
(2006年3月23日「佐藤卓史 ウィーンの夕べ」プログラム解説文の初稿)
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