特集 ウィーン 音だより

(3) ベルクとウィーン

こちらもウィーン生まれの代表的な作曲家ながら、ベルクにはシューベルトほどの人気があるわけではなく、ゆかりの旧跡として残っている場所も多くありません。 アルバン・ベルク・ヴェーク(アルバン・ベルク通り)の名は、ベルクが生涯の大半を過ごした13区・ヒーツィングの小道に付けられていました。

「新ウィーン楽派」と「十二音技法」
ベルクが音楽史の中で属している「新ウィーン楽派」と、彼らが採用した作曲システム「十二音技法」について、まずは簡単に解説しておきましょう。

シェーンベルク
シェーンベルク
新ウィーン楽派」は、オーストリアの作曲家アルノルト・シェーンベルクと、その弟子たちが形成した集団のことで、 ハイドン・モーツァルト・ベートーヴェンの「ウィーン古典派」に因んだ名称と考えられています。 代表的な作曲家はシェーンベルク自身と、アントン・ヴェーベルンアルバン・ベルクの3人だけです。
バロック以降、300年にわたって西洋音楽を支えてきた「調性」という概念はロマン派の成熟とともに揺らぎ、次第に飽和・行き詰まりの様相を見せるようになります。 ヴァーグナーの「トリスタン」に代表されるように、拡大され、不明瞭なものとなっていった調性が、表現の進歩とともにやがて崩壊に向かうのは歴史の必然でした。 シェーンベルクや同世代の作曲家たちは、こうして「無調」に到達します。しかし、無調の音楽というのはそう簡単に作れるものではありません。
調性は、いわば音楽を束ねてきた「輪ゴム」のようなものでした。輪ゴムが劣化して緩くなり、ついに切れてしまうと、 それまで輪ゴムによって秩序立てられてきた音楽はバラバラになってしまい、「無意味な音の羅列」になりかねない。 シェーンベルクは、調性に代わる新たな「輪ゴム」(秩序)を、無調の音楽に持ち込まなければならないと考えました。
調性音楽においては、1オクターヴの中にある12の音のうち、7つの音が「音階」を形成し、そのうちの1つは「主音」、主音の完全5度上の音は「属音」などと、 それぞれに特別な機能(役割)を与えられます。重要な役割を付与された音は、その音楽の「主役」として何度も登場し、 それ以外の音は主役に従属する「脇役」になる。シェーンベルクはこうした音と音との主従関係に注目して、調性に代わるシステムを考案しました。

1オクターヴの中の12の音の中に「主役」や「脇役」を設けず、すべての音の登場回数を均一化する
12の音を1回ずつ使った「基本音列」を設定し、「基本音列」のヴァリアントによって音楽を構成していく。
ヴェーベルンの「協奏曲」作品24の基本音列

これが「十二音技法」の基本的なアイディアです。

西洋音楽をラディカルに変革し、「調性の崩壊」を招いた張本人と目されることもあるシェーンベルクですが、 本人はバッハやベートーヴェンから脈々と続くドイツ音楽の後継者を自認しており、あくまでドイツ音楽が今後も優位を保っていくための正統的な進歩を目指していました。 ドビュッシーやストラヴィンスキーなどが伝統に反抗することで無調に達したのとは、正反対の道のりだったのです。

青年期まで
ウィーン中心部、ベルクの生家があった場所
アルバン・ベルクは1885年2月9日、ウィーンの中心部で生まれました。父は書籍や美術品の店を経営しており、芸術的な素養のある母のもと、 ベルクとその兄弟たち(兄2人と妹1人の4人兄弟)は、文化的で裕福な生活を送っていました。 一家に職業音楽家はいませんでしたが、ベルクは妹とピアノを連弾したりして音楽に親しみ、14歳頃から作曲を試みるようになります。 作品の多くは歌曲で、書き上がると家庭内で披露されました。

そんな幸せな日常が暗転したのは1900年のことでした。父が心臓発作で急死してしまったのです。残された一家は経済的に逼迫しました。 精神的ショックからか、15歳のベルクは7月23日に持病となる喘息の発作を起こします(一説には1908年の7月23日)。 以降、ベルクは「23」を運命の数字と定め、自らを表す数として作品の中で暗示的に使用しました。
不幸は続きます。1902年には一家の別荘で雇っていたメイドの女性を妊娠させてしまい、ベルクは私生児アルビーネの責任を負う証書を書かされました。 学業の成績も低迷し、精神的に追い詰められたベルクは自殺未遂に至ります。
しかし音楽の創作はこの間も絶えず行われ、140曲もの歌曲が独学で書かれました。兄がそのうちの数曲を密かにシェーンベルクに見せたことから、ベルクの運命は変わります。 若者の才能を認めたシェーンベルクは、一家の財政状況を鑑みて、ベルクを無償で弟子に取ることを決めたのでした。 1904年、ベルクが学校を卒業し、役所の会計士見習いとして働き始めた年のことです。

作曲家としてのあゆみ
シェーンベルクは、ベルクの声楽曲への偏愛や、ナイーヴで人間的な感受性をすぐに見抜きましたが、それだけではいずれ行き詰まると考え、器楽も対等に扱えるように、厳格で秩序だった技術的訓練を施しました。 15歳で実父を亡くしたベルクにとって、シェーンベルクは人生に導きを与えてくれる新しい父でした。 1911年にシェーンベルクがウィーンを離れたことで修行期間は終わりますが、シェーンベルクはそれからもことあるごとに、ベルクの音楽や生活に口を出し続けました。 ベルクは恩師を心から尊敬しつつも、その保護者気分に幾分うんざりしてもいたようです。
ヴェーベルン
ヴェーベルン
1905年に母方の遺産を引き継いだことで、一家の経済状況は安定し、ベルクも役人見習いの仕事を辞めて音楽の勉強に専念することができるようになりました。 ウィーン音楽院に入学した彼は、同じくシェーンベルクの弟子だったアントン・ヴェーベルンと出会います。 理知的でヴァイタリティに溢れ、師の信頼を勝ち得ていたヴェーベルンは、繊細で病弱なベルクとは正反対の性格の持ち主でしたが、それにもかかわらず二人は生涯の親友となりました。

マーラー
マーラー
ベルクの学生時代の最大のスターはマーラーでした。ウィーン国立歌劇場の総監督として辣腕をふるう姿に心酔したベルクは、 終演後の楽屋に押し入ってマーラーの指揮棒を強奪するという蛮行に出ています。マーラーの死後、ベルクはその未亡人アルマや、 アルマの次の夫である彫刻家のヴァルター・グロピウスとも親交を結びました。
ベルクは持ち前の感受性と教養の高さから、あらゆる芸術分野に精通していましたが、ウィーンっ子らしくサッカー観戦に熱狂するような一面も持ち合わせており、 また彫りの深い顔立ちで、仲間内では美男子としても有名でした。

妻ヘレーネ
妻ヘレーネ
1907年にベルクはオペラ歌手のヘレーネ・ナホヴスキと出会い、猛烈な恋に落ちます。ヘレーネの母は皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の愛人で、 ヘレーネは皇帝の庶子と噂されていました。自身と同じように高い教養と理想を持ったヘレーネとの結婚は、 彼女の父の反対によりなかなか実現しませんでした。この頃作曲されたピアノ・ソナタ作品1、弦楽四重奏曲作品3をはじめとする初期の重要な作品には、 この苦しく激しい愛の情熱が表れています。
2人は1911年5月3日にようやく結婚し、郊外のヒーツィングに居を構えました。ベルクは自宅を離れる日には毎日妻へ手紙を書き、忠誠と愛情を示し続けました。

CD「ウィーン 音だより」に収録されているピアノ・ソナタ作品1は、シェーンベルクのもとでの学習の総仕上げとして書かれた「卒業作品」です。 作曲時期は明確にはわかっていませんが、1909年頃に完成したと考えられ、1910年、ベルクの記念すべき作品1としてベルリンのリーナウ社から自費出版されました。 表紙に印刷されている独特の丸文字は、作曲者自身がデザインしたもので、彼の美的なセンスが発揮されています。
ベルクは当初、多楽章形式の伝統的なソナタを構想していましたが、第1楽章を完成させたところで行き詰まりました。 シェーンベルクに相談したところ、「それならば、君はもう言うべきことを全部言ってしまったのだ。これで終わりにしてはどうか」とアドヴァイスされ、結局単一楽章のソナタとして完結しました。
半音階や全音音階、4度音程の多用によって調性感は極めて曖昧にされていますが、一応はロ短調をベースにしています。 拡大され尽くした調性とは対照的に、ソナタ形式の構造は明瞭に造形されており、提示部には古典派風の繰り返し記号まで付けられています。 詳しい分析はここでは割愛しますが、モティーフを徹底的に、とりわけ対位法的に操作していく方法はベートーヴェン以来のソナタの伝統を受け継ぐものです。 しかし全体を覆う爛熟した響きは悲劇的、かつ頽廃的な雰囲気を纏っており、伝統と革新が交錯する世紀末ウィーンの空気を色濃く反映した作品といえるでしょう。
出版の翌年1911年に弦楽四重奏曲作品3や、ヴェーベルンの新作などとともに初演され、騒動を巻き起こしたと伝えられています。 ベルクが生前に出版したピアノ独奏曲はこの1曲のみです。

13区・トラウトマンスドルフガッセ27番地のベルク夫妻の住居
シェーンベルクの門を離れ独り立ちしたベルクでしたが、作曲家としてのスタートはなかなか軌道に乗りませんでした。 シェーンベルク門下生の発表会以外に作品披露の場はなく、その発表会でさえも、聴衆の罵倒と暴動で警官が呼ばれるような始末でした。 保守的なウィーンの聴衆の、現代音楽に対する風当たりは厳しいものでした。
ドイツ、フランス、イタリアで、私の音楽への関心が生じてきたらしいことを感じますが、オーストリアでは全く反対です。 シェーンベルクの主宰する「私的音楽演奏協会」を除いては、ウィーンでたとえ1曲でも私の作品が演奏される場所はありません。 「ピアノ・ソナタ」ですら演奏されないのです。
(1920年、エドゥアルト・エルトマンから自作の交響曲を献呈されたことに対する感謝状より)
第一次世界大戦が始まると、召集されハンガリー国境に配属されますが、病弱な身体は軍隊の生活に耐えられず、すぐにウィーンの大本営に戻されました。 開戦当初は愛国心に燃えていたベルクでしたが、自身の体験を通して戦争の悲惨さと無意味さを痛感するようになります。
戦争が終わると、シェーンベルクの設立した「私的音楽演奏協会」の代表に任命されました。 ウィーンで現代音楽を演奏し、人々を啓蒙するために、この協会は理想的な組織でした。 聴衆の拍手は禁じられ、演奏が充分なレヴェルに達していないと見なされれば発表は取りやめられました。 ベルクはこの演奏会の企画や運営に深く関わり、彼のいくつかの作品の初演もここで行われましたが、依然として成功へのきっかけをつかむことはできませんでした。
作曲家としての成功を半ば諦めたベルクは音楽ライターへの転身を図り、実際に音楽雑誌に記事を投稿したりしていますが、 そこでは彼の優れた文筆力と分析家としての手腕が発揮されています。

「ヴォツェック」の成功
完全な無調のスタイルを手中に収めたベルクの創作態度は実に丁寧なもので、1作を書き上げるのに何年もかかるのが常でしたが、 ビューヒナーの戯曲「ヴォイツェク」のオペラ化には、実に構想から8年もの歳月が費やされました。 従軍や「私的音楽演奏協会」の役職による中断を挟みながら、少しずつ書き進められたオペラ「ヴォツェック」は、1922年に完成しました。
貧しい下級兵士ヴォツェックは金のために人体実験の被験者となって精神を病み、内縁の妻の不倫を知って錯乱、彼女を刺殺し、自らも溺死する…という救いのない筋書きに、 ベルクは無調様式を駆使した濃密な音楽を付与していきました。そこには、自らの過酷な従軍体験も反映していたに違いありません。
アルマ・マーラー
アルマ・マーラー
依頼を受けて書かれたのではない「ヴォツェック」は、上演の見込みはなかったものの、若い作曲家を支援していたアルマ・マーラーの援助を受けて自費出版されることとなりました。 これが功を奏し、ベルクの運命は好転し始めます。
1923年4月にはウィーンのウニフェルサル出版社と独占契約を結び、過去も含めてすべての作品が同社から出版されることになります。 8月にはザルツブルクの国際現代音楽祭で弦楽四重奏曲作品3が演奏され、新聞で賞賛されました。
「ヴォツェック」も、意気盛んな指揮者たちの注目を集めていました。ヘルマン・シェルヒェンはオペラの一部を抜粋した組曲を委嘱、 この「組曲版」は1924年にフランクフルトで初演され話題となります。全曲の上演は1925年12月14日、ベルリン国立歌劇場で行われました。 指揮を執った若き芸術監督エーリヒ・クライバーはかねてからこの作品の真価を見抜いており、「職を賭す」覚悟で初演に臨みました。 保守層からの反発はあったものの、結果的に作品は大成功を収め、ベルクは40歳にしてビッグネームを勝ち得ます。 ヨーロッパ各地での上演に招かれては聴衆の喝采を浴び、出版社からの収入は月給制となり、自動車や別荘を買うなど、 「成功者」としての生活がベルクを待ち受けていました。

ハンナ・フックス
ハンナ・フックス
転機のベルクはまた、新たな熱愛の対象をも手にすることになります。 プラハに住む友人のヘルベルト・フックスを訪ねていったベルクは、あろうことかその妻ハンナと熱烈な恋に落ちたのです。
妻ヘレーネへの忠実な手紙は以降も書き続けられましたが、その言葉は実は空虚なもので、ベルクはその後の生涯を通してハンナだけを愛し続け、その愛情こそがインスピレーションの源でした。 ハンナは、アルマ・マーラーの後の夫となるフランツ・ヴェルフェルの妹でもありました。ヘレーネはこの不倫関係にうすうす感づいていたようで、仲を取り持ったアルマは後々までヘレーネの恨みを買うこととなります。
ハンナへの愛から生まれた作品は弦楽四重奏のための「抒情組曲」で、運命の数字「23」、自身とハンナの頭文字をはじめ、 譜面には2人にしかわからない秘密の暗号が大量に書き込まれました。その妄想的なまでの情熱を、ハンナ本人がどう受け止めていたのかはよくわかりません。

この頃からベルクは、師シェーンベルクの開発した十二音技法を、自らの創作に採用し始めますが、その手法は独特で、ある意味ではシェーンベルクの理念に反するものでした。
シェーンベルクは十二音技法を実践するにあたって、聴き手に調性を感じさせないよう、三和音や音階など従来の調性音楽に使われていた音型を避けるようにして音列を組む、という規則を設けました。 ベルクはこれを意図的に無視して、伝統的な調性音楽と十二音技法との折衷を目指したのです。
もうひとりの弟子ヴェーベルンが、十二音のシステムを更に推進する急進的な作風を見せたのに対し、ベルクはあくまでも耳に心地よい音楽を求め続けました。 ウィーン人らしい保守性を、ベルクは捨て去ることができなかったともいえるでしょう。

「ルル」と晩年
「ヴォツェック」が成功すると、ベルクはすぐに次のオペラの構想を練り始めます。原作に選ばれたのは魔性の女「ルル」を主人公にしたフランク・ヴェーデキントの戯曲でした(「地霊」と「パンドラの箱」)。 出会った男を次々に虜にし、破滅に追いやるルル。ベルクにもまた、ルルの魔力が降りかかったのかもしれません。
「ルル」の作曲が進むにつれて彼の周囲ではトラブルが多発し始めます。ナチスの台頭によって、ユダヤ人のシェーンベルクを頂点とする新ウィーン楽派への弾圧が激しくなり、 シェーンベルクは1933年にアメリカに亡命。ベルクに批判的だった保守派の評論家たちの声はますます大きくなり、「ヴォツェック」の上演は途絶え、収入も激減します。 ベルクの健康状態も、今までになく悪くなっていきました。
マノン
マノン・グロピウス
1935年4月、ヴァルター・グロピウスとアルマ・マーラーの娘、マノンが18歳の若さで他界します。女優を目指していたこの美少女をとりわけ可愛がっていたベルクは、 アメリカのヴァイオリニスト、ルイス・クラスナーから委嘱されていたヴァイオリン協奏曲を、マノンの追悼に捧げることにしました。 ベルクの作品としては異例の速さで書かれたこの協奏曲は、モーツァルトの「レクイエム」やマーラーの晩年の作品と同じように、作曲者自身の死が近いことをを予感させるものでもありました。
ヴァイオリン協奏曲を完成させ「ルル」の仕上げにかかっていたベルクは、夏の間に背中にできた虫さされが悪化し、年末に重体となります。 運命の日、12月「23日」の夜を何とか持ちこたえたベルクは、翌24日の未明、敗血症で息を引き取り、自宅の近くのヒーツィング墓地に葬られました。50歳でした。

ヒーツィング墓地のベルク夫妻の墓
遺作となった「ルル」は、最終幕が未完のまま残されました。アメリカにいたシェーンベルクや、 ヴァイオリン協奏曲の初演の指揮を執ることになっていたヴェーベルン(盟友の死にショックを隠しきれず、リハーサルの後急遽降板)に補筆の依頼が舞い込みますが、誰も首を縦に振ろうとしませんでした。
そうこうするうちにヘレーネ夫人の態度が硬化し、ベルクの全作品の管理を徹底するとともに「ルル」の補筆を全面的に禁止しました。 死後に訪ねてきた私生児アルビーネの存在を知ったことや、ハンナ・フックスとの不倫関係など、ヘレーネの中では亡き夫に対する複雑な感情が渦巻いていたのでしょう。 ヘレーネはそうしたネガティヴな事実を隠蔽すべく、情報をコントロールしようとしたのです。彼女は夫からの大量の書簡を発表しましたが、原文は公開されず、 ヘレーネの「口述」に基づくもので、その信憑性には疑問がもたれています。
ヘレーネの死後、その遺言に逆らってウニフェルサル社がウィーンの作曲家フリードリヒ・ツェルハに「ルル」の補筆を依頼していたことが明らかになりました。 晩年のヘレーネが設立した「アルバン・ベルク財団」は即座に法的措置を執りましたが、最終的に第2幕までと第3幕の補筆版を分けて発表する、ということで合意しました。 補筆版はピエール・ブーレーズの指揮により1979年に上演されました。

慎重に、そして緻密に作品を創造していったベルクは、極めて寡作な作曲家でしたが、その作品のどれもが人類のかけがえのない遺産として高く評価されています。 死後40年以上を経て日の目を見た完成版「ルル」も、「ヴォツェック」と並んで世界の歌劇場の人気レパートリーとして定着しています。

[参考文献]
・アルバン・ベルク ―生涯と作品―(フォルカー・シェルリース著、岩下眞好・宮川尚理訳、泰流社)
・Alban Berg, A Research and Information Guide (Bryan R. Simms, Routledge)
・Alban Berg Bildnis im Wort (Willi Reich, Die Arche)
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